にんげん

にんげんである限り

こんな身体に産んでごめんね

今、文章を書けると思ったので書きます。

ブログを書くより先にやらねばならぬことはたくさんあるのですが、息抜きに書きます

息抜きと言いつつも書き始めたついさっき(昼12時ごろ)に起きたばっかりなのですが。。まあいいか。

 

成長したらば自分の道は自分で描いていけ、ということについてです。

特に説教でも啓発でもなんでもないです。私の思ったこと。纏まりないです。

 

残念ながら私は普通の人間ではありませんね。

どちらかといえば普通よりかは劣っていて尚且つひどく個性的な人間です。

 

私の母親は普通な人間です。多分

今までもごく一般的に生きてきたらしいです。

健康で、特に道を踏み外すこともなく、誰からも嫌われることはせず、謙虚に生きてきたらしいです。これが母のいう普通だそうです。

 

私が普通ではないのは母の言う”普通”から外れているということです。

 

母親は私を普通の人間に産みたかったらしいです。正しくは普通の人間に産んで”あげたかった”。

母に最近(ここ一年以内)言われました。

涙目で「あなたをこんな(障害のある)身体に産んでごめんね」。

これを言われたらあなたならどう思いますか。また、どう返しますか。

私はこの言葉を「産まれてきてくれてありがとう」の対義語だと感じて受け取りました。

言葉は本当に難しいですね、感情もまた子どものうちはうまくコントロールできないと難しいですね。

この手の謝罪は悪意のない暴力に感じました。てか誰に謝っているんだろうね。本当に謝るつもりで言っていないんじゃないかな。

普通ってなんでしょう。障害のないことなんですかね。障害ってなんでしょう、病気があってそれを障害と呼ぶのならば、その人にとっての普通、また一般的はどこにあるのでしょうかね。

母は今でも子供大人な部分があると感じます。昔、啓発本を買い漁るに、自分の正しい生き方を探しています。おかげで家の本棚は啓発本だらけです。

自分の子どもが可哀そう、というよりかはこれでは自分が可哀そうという具合になっている気がしてなりません。

 

一方で私の普通は日々変わります。

気分でも勿論ありますが、影響されやすいのは身体、病気の進行具合で私の普通は変わっていきます。

不可能なことも増えていきます。今無理なことは無理です。

現地点でいうと、自転車に乗ることが無理になりました。自転車という乗り物は最早私にとって普通の乗り物ではないです。

ハンドルを操作するだけで精一杯なのに身体を左右に平衡をとってるのがすごい。今の自分は無理。片手運転でスマホいじっている人とかどこの大道芸人だよと思っています。これは危険だからマジでやめてほしいです。

父は同じ病気で、父の普通は元気な頃の自分に合わせて普通の基準を置いているらしいです。

先の自転車の例だと「まだ自転車に乗れます!、練習すれば乗れます!」と言っているようなもんです。いや、無理ですよ。

このように思うことはあまりにも不自由だと思います。今でも父は病気を治して自分の足で歩きたい、と強く願っています。脊髄小脳変性症で今できるのは現状維持です。リハビリを続けていかない限り、身体はかたまっていきます。

これからの医療を信じて希望はありますが、自分の思う普通の基準を現在に持っていかないとどんどん気が滅入りますよ。

 

きっと母が買い漁っていた啓発本はそれぞれの著者の「普通」なのだと思います。

悪いように言ってしまえば読者への自分の「普通」の押し付けです。

「こんなときはこう考えましょう」とか、「相手にはこんなことをしましょう」とか、ぜんぶ著者の押し付けです。そんなの線路に無理やり走らされているようなものですね。

余計に生きづらいです。

自分の持つ”普通”は自分でもっていないとならないと思います。

幼いころは親や先生の描いたレールにのります、成長して自分で描きたくなったら自分の走る道は自分で描いていったらいいんですよね。それができない人は大人になれていないと私は思います。うまい下手は誰も決めません。私の両親の話はあくまで私が第三者視点からみた主観にすぎません。

 

それぞれの人がもつ”普通”はそれぞれ違う。”普通”と”一般的”は違うということ。

”普通”がたくさんあるように正しい答えは一つではない。

 

最後に母の言葉に私はそんなこと言わないでくれ、とだけ伝えました。

伝えるべき言葉はそれだけでよかったんだと今でも思っています。

 

長い文章ここまで読んでくれてありがとうございました。

コメントお待ちしております。