搾取とAV女優
今回の記事はアダルトな内容を含みます。
アダルトビデオとその女優さんはすげーな、っていう話しです。
苦手な方はご注意して閲覧してください。
アダルトビデオ女優であり、文筆家である方、Mさんの本を読んだのでレビュー代わりに軽く批評のようなものを。
アダルト女優はもはや、向いてない人になってほしい世の中になってきていると思う。Mさんもその1人であると勝手ながらに思う。
そもそもアダルトビデオ(以下AV)に向いている人とはどんな人なのだろう。痴女のような人か、学生のように幼い顔を持つ大人か、お金がなくてとりあえず早く稼ぎたい女か。
近年では求められる傾向が変わりつつあり、「ごく普通の一般人」として生活をしている人への需要が高まってきている。一般人、アダルトビデオの素人が裏の顔を見せてしまうということが、現代の世間一般ではとても興奮するのである。
パパ活が流行しているのも関係していると考える。下で軽く触れる。
その素人としてのままMさんは清純派AV女優として門をくぐったのだと思う。
しかし素人としての本当の初々しさは初めての時と2、3回目の撮影でほぼおしまいである。それはもちろん慣れるからである。
どうして清純派を続けることができるのだろうか。黒髪だから?可愛らしい体型のせい?性格のおかげ?どれも違うと思う。
読んだ本には「AV女優業界は体育会系である」と書いてあった。「話し込んでいるからと、気を使って挨拶をしないでいると先輩女優に嫌味を言われる」とそう書いてあった。
人に気を使って大人しい人には向かない、そのうちに心が折れてしまうという職種であることは分かった。本にあるように、人の世話を焼きがちですごく気を使ってしまうタイプのMさんがなぜ、ここまでAVを続けていられるのだろうか。端的にすごい。
私の持論でMさんのスタンスについて考察をしてみる。
まず、Mさんが搾取され続けるAVに主演することを止めないのかというと、Mさんには性行為という概念が、直接“人を愛する人とすること”に結びつかなかったからである。そして清純派を続けられるのには、“人から愛されること(愛されていること)にまだ気がつかない(気がつけない)”からであると考えた。
そもそも現代人が抱く、性行為自体の概念そのものがひと昔と比べてかなり変わってきているのだと思う。そうでなかったら、パパ活をする学生も、マッチングアプリでワンナイトをする相手を探す人もこんなに溢れないだろう。
一体どう変わっているのかというと、上に書いたように聖行為を“愛する人とすること”から現代、ここ数年では“お互い、もしくは片方が相手に対して熱を求めること”として変化が徐々に起こっている、そんな風に考えた。つまり、恋愛感情が全てではないということである。
ここでいう熱とは物理的な熱であったり、寂しさだったり、満たされなかった愛着を埋めるためであったりだ。これは男女に限らずに持っているものだと思っている。
Mさんはその性に対する曖昧さを絶妙な加減で利用してAV女優を演じているように感じる。かなりのねじれ者であると本を読んで率直に思ったが、今ではそれがいいのだと思う。世界中で多様性が謳われる今、Mさんは「私はこれでいいのだよ」と教えてくれた。
AVの話に戻る。AVとしての位置付けで“なるべく隠れて観るもの”、“普段ではない、声で喘ぐこと”、“過激な性行為をすること”と、映像自体にはあまり変化はないように思える。
しかしAV女優側からしたらそこに対する、自分が搾取されることへの意味づけを自ら付け加え続けているのではないだろうか。
AV業界にとても興味を持っていた時期に丁度この本を読んだが、
私には全く何も考えないか又はすごく色々考えるかどちらかにならないとやっていけそうにもないので、やらない。
そしてこの本は決してAV女優を後押しするものでもなく、ただただちょっとひねくれ者のMさんのエッセイであるということを注記しておく。
今日はこの辺で。
こんなことを考えながらAVを鑑賞をする人は私くらいだと思うね。
軽くミニレポート書いた気分だよ。